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富岡製糸場「ああ野麦峠」に見る女工哀史の真実! [世界遺産]

富岡製糸場と女工哀史の関係!


ノンフィクションで書き下ろされた富岡製糸場に見る
富岡製糸場と女工哀史の真実!


富岡製糸場ひ代表される「ああ野麦峠」の女工哀史は、本当に地獄より辛い
ものだったのだろうか?


yjimage (2).jpg


製紙女工.jpg


「ああ野麦峠」によれば、諏訪地方周辺の農村部から集められた
少女たちは、山深い飛騨山中の村々から連れて来られ、
半ば身売り状態で奉公に出されたとあります。



労働環境も悪く、過酷な労働を強いられ、あさ5時から
夜の10時まで働き、休みも殆ど無かったということです。



宿舎には鉄の桟がはめられていて、逃げ出せば監視員に
直ぐに見付けられ、連れ戻されたと言うことです。




ところが、富岡製糸場に女工哀史は無かったという節も
あるようです。



「ああ野麦峠」はノンフィクションなので、元の製糸女工
に聞き取りなどをして、書かれたものだろうと思います。



ですが、「富岡製糸場」に女工哀史はなかったとするには
それ相応の理由があります。



明治末期から大正に掛けて、低賃金で粗末な食事そして
長時間の重労働は確かに合ったそうです。



しかしそれは「富岡製糸場」以外での事!



諏訪地方は養蚕が盛んで、水も豊富なので製糸産業には
打ってつけの土地だった。



当時の政府が、フランス人の設計士に依頼して建築された
のが「富岡製糸場」だったということです。



建設後は、全国から約400人の女性が集まったらしいです。
いわゆる「富岡乙女」と呼ばれ、とても優秀な女工として働いて
いたということです。



「富岡乙女」は他の製糸場にも、指導に言っていたとか?
どうやら「富岡製糸場」に限っては、他の製糸場とは違っていた
ということかも知れません。




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富岡製糸場 女工哀史はフィクションだった! [世界遺産]

さてさて、群馬県の富岡製糸場が世界遺産に決定しましたね~^^<

富岡製糸場といえば、山本茂実の「ああ野麦峠」に代表される
糸引き女工の悲話を連想させますが!


貧困にあえぐ飛騨の農家の若い娘たちは、家計を助けるために、
製紙工場に売られるようにして信州へ糸引き稼ぎに行ったと言う
哀史だと語り継がれていますよね。


製紙女工.jpg


故郷に帰る途中雪の深い野麦峠で、凍死する娘たちが何人もいた
と言う事ですが、そんな話を聞くたびに、当時の貧困した農家の
人達の苦悩が切ないですよね。



ところが、富岡製糸場 女工哀史はフィクションだった!


そんな話もあることを知っていました?


富岡製糸場はフランス人が養蚕の盛んな群県富岡市に製紙工場
建設したと言う事です。


製紙工場の完成後は、全国から女性工員が400名も集まった
そうです。


そして女性工員の待遇ですが、職場環境も良く労働時間は1日
約8時間で、週休が1日あり、盆や正月は10日間の休みが
あったそうです。


工賃は、一等女工が25円 二等女工が18円 三等女工が12円
それ以外は、9円 月給制だったみたいですね。
それに、寮費や食事代は別だったそうで、まるまる自分の収入に
なったと言われています。


当時の公務員の初任給が8~9円だったと言う事ですから
如何に破格の待遇だったか想像がつきます。



糸引き女工は一方で、悲話、哀話で語り続けられ、また一方では
日本産業の女性進出の先駆けだったと言われたり、一体どっち何だ
と言いたくなりますが、真実はどっちなんでしょうか?


全国に製糸場に富岡の女工経験者が、その技術を伝えていった
ということですので、日本の産業の革新に一役かった事に
間違いはないようですね(^^ゞ

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